民芸館

豊田市民芸館について

豊田市民芸館の誕生

古陶磁研究家であり名古屋民藝協会会長も務めた豊田市名誉市民・本多静雄(ほんだしずお:1898-1999)の尽力により、日本民藝館(東京・駒場)が改築される際、その一部(旧大広間と館長室)を本多が譲り受け、豊田市へ寄贈しました。そして、それらを豊田市が整備し、1983(昭和58)年に現在の第1民芸館が開館しました。その後、1985(昭和60)年に第2民芸館と茶室勘桜亭(かんおうてい)、1990(平成2)年に第3民芸館が開館しました。そして2016(平成28)年には旧本多静雄邸を豊田市民芸の森として一般公開を始めました。
現在、豊田市民芸館は愛知県唯一の公立の民芸館として、展覧会や手仕事によるものづくり講座の開催を通じて、民芸品の調査、研究、普及活動に努めています。

  • 豊田市民芸館の誕生1

    現在の第1民芸館外観

  • 豊田市民芸館の誕生2

    日本民藝館より移築した旧大広間(現在の第1民芸館展示室)。右奥には柳宗悦の元館長室があり、正面奥には本多静雄コレクションの円空仏の展示スペースが新たに設けられた。

民藝とは

日本民藝館より移築した柳の元館長室(第1民芸館内)

日本民藝館より移築した柳の元館長室(第1民芸館内)

民藝とは、思想家で日本民藝館創設者の柳宗悦(やなぎむねよし:1889-1961)らによって、1925(大正14)年に生み出された言葉です。1889(明治22)年に東京で生まれた柳は、学習院高等科を卒業する頃、文芸雑誌『白樺』の創刊に参加します。その後、25歳で結婚し千葉県我孫子に居を構え、ロダンの彫刻を見るために朝鮮半島から訪れた浅川伯教(あさかわのりたか)との出会いによって朝鮮工芸に目覚めます。当時評価されていなかった陶磁器を始めとする朝鮮工芸を精力的に集め、1924(大正13)年にはソウルに「朝鮮民族美術館」を開設します。

ちょうどその年、山梨を訪れた柳は、偶然目にした木喰仏(もくじきぶつ:江戸時代後期の遊行僧、木喰上人が各地で刻んだ仏の総称)に大きな感銘を受け、木喰調査を開始します。木喰仏を求め全国を訪ね歩くなか、地方の下手(げて)な実用工芸「雑器」に目を向けるようになります。柳はそれまで美の対象として顧みられることのなかった、無名の職人たちによって作られる民衆の日常生活の実用品に対し、素朴で美しいとの価値を見出しました。

そして1925(大正14)年、陶芸家の濱田庄司、河井寬次郎らと木喰調査のため紀州を旅行中、津に向かう車中で「下手物(げてもの)」「雑器」に代わる、それら美の対象として「民藝(民衆的工藝)」という言葉を生み出したのです。そして翌年に『日本民藝美術館設立趣意書』を発表し、1936(昭和11)年には日本民藝館が開館しました。

愛知での民藝運動

日本民藝館が開館する2年前の1934(昭和9)年、柳は日本民藝協会を設立します。柳らによる全国各地の手仕事調査で、柳の思想に共鳴した人々によって各地に民藝協会ができ民藝運動となって広がっていきます。愛知県では、1930(昭和5)年に柳、濱田、河井が瀬戸を訪れ石皿を調査、1937(昭和12)年には東栄町へ花祭りで用いられる「ざぜち(切り紙)」の調査に訪れています。そして、1956(昭和31)年に名古屋民藝協会(~2011年)が発足しました。
名古屋民藝協会発足以前の1945(昭和20)年の暮れ、茶道研究会を通じて柳宗悦と本多静雄が出会います。その縁により、1951(昭和26)年、本多が理事長を務めるヤハギ川観光協会主催の第2回夏期文化講座で、「茶の性質」と題して、柳が挙母市(現豊田市)で講演をしたという記録があります。また、1956年の名古屋民藝協会発足式に出席した柳と濱田らは、本多邸(現・豊田市本多記念民芸の森)を訪れ猿投窯の発掘品を見学しました。

穴窯

穴窯

斜面を利用した半地下式の穴窯。勾配を利用して火度を上げる構造の登り窯の一種。

この穴窯は市内高崎町の公設卸売市場建設の際の1980(昭和55)年の発掘調査で明らかになった猿投窯の兼近1号古窯跡を移築復元したものです。出土遺物より、平安時代中頃に作られたものと推定されています。
規模は長さ約6メートル、幅は約1メートルで丘陵の斜面を利用し、窯体半分は地下に、半分は地上に露呈した半地下式の古窯です。出土遺物は皿、碗などが多く、焼成に使用した三つ又トチもたくさん出土しました。また円面硯(えんめんけん)と呼ばれる硯(すずり)も出土しています。
復元した穴窯は、保存だけでなく活用するため、焚き口を改良し煙突を設置しました。現在は年1回、「復元猿投古窯・穴窯陶芸講座」開催の際に使用し、受講者と共に3日間かけて薪で自然釉の作品を焼成しています。

旧井上家住宅西洋館

旧井上家住宅西洋館

建物東側の2階外壁にあるカブに似たデザインの窓枠の意匠は五七桐紋とも、カブは「株が上がる」意味があるとも言われています。

1989(平成元)年に市内井上町より移築復元した明治期(推定明治10年代)の建物で2000(平成12)年に国の登録有形文化財に登録されました。豊田市民芸館が位置する豊田市平戸橋町の近隣の井上町は、井上農場を開き、三河鉄道(現・名鉄三河線の猿投駅)への土地の寄付などこの地域の発展に尽力した井上徳三郎(いのうえとくさぶろう:1867-1936)の名に由来する町です。旧井上家住宅西洋館は、明治時代に名古屋市内で開催された博覧会の迎賓館として使用された後、関戸銀行(旧東海銀行の前身の旧愛知銀行)の建物として使用され、関戸銀行に勤めていた徳三郎によって井上農場内に移築され、農場の迎賓館や住宅として長い間使用されていました。1階の外観と屋根瓦は和風、2階は随所に西欧に由来する意匠を取り入れた擬洋風建築で外観の見学ができます。
※内部見学はできません。

心偈(こころうた)の石碑

心偈

石碑の文字は本多静雄によるもの

柳宗悦は自らの思想を短い言葉で綴った心偈(こころうた)を72首残しています。
豊田市民芸館の最寄の平戸橋駅から民芸館までの約1kmの道のりには5つの心偈の石碑が設置されています。これは本多静雄が柳の心偈72首から5首を選び、来館者の目印になるようにと設置したものです。写真の心偈は第3民芸館の前にあるもので「見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ」と彫られています。柳はまずは直観で物を見なさい、その後概念で整理すれば良いと言います。展示室で展示物を見る時、物を見る前に説明書きを先に見るということがあるかと思います。知識を持って見ると、その知識に邪魔をされて純粋な気持ちで見ることができなくなってしまうと説いているのです。

民芸の渓(たに)~四季折々の自然と周辺の歴史~

旧井上家住宅西洋館

平戸橋公園内に設置された新十名所を記念する石碑

豊田市民芸館は猿投山を望む矢作川のほとりの自然豊かな平戸橋公園の一角にあります。春は桜、秋は紅葉の名所として親しまれています。矢作川両岸の旧平井村と旧越戸村を結ぶ平戸橋、その北側一帯は勘八峡(かんぱちきょう)と呼ばれ、1927(昭和2)年には愛知県下新十名所の1つにも選ばれたほどの景勝地として賑わいました。また、民芸館の北側に位置する前田公園は越戸村(当時)出身の実業家・前田栄次郎が故郷のために建設した公園で、101段の階段を上ったところから南方向の眺望はすばらしく、豊田市中心地の豊田スタジアム辺りまでを一望できます。その他、周辺には越戸ダムや馬場瀬古墳群(まばせこふんぐん)、古志戸窯跡(こしどがまあと)などが点在し、民芸館、民芸の森と合わせて、民芸の渓をめぐるウオーキングを楽しむことができます。四季折々の自然と歴史、手仕事のすばらしさを五感で楽しんでみてはいかがでしょうか。

ウオーキングマップはこちら

豊田市民芸館のロゴ

豊田市民芸館基本情報(施設の規模と開設年)

○工房
590㎡
 1980(昭和55)年
○第一民芸館
210㎡
 1983(昭和58)年
○第二民芸館
180㎡
 1985(昭和60)年
○茶室勘桜亭
48㎡
 1985(昭和60)年
○土蔵
73㎡
 1986(昭和61)年
○旧井上家住宅西洋館
46㎡
 1989(平成元)年
○第三民芸館
512㎡
 1990(平成2)年

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