民芸の森と本多静雄

民芸の森と本多静雄

本多静雄(1898~1999)

本多静雄(1898~1999)

民芸の森は、豊田市民芸館の設立をはじめとした民芸の普及や、猿投古窯の研究に尽力した本多静雄の屋敷跡です。
本多は電気通信事業と科学技術の向上に献身するとともに、古陶磁研究家として、陶磁器の研究に取り組みました。特に猿投山西南麓古窯跡群(猿投窯)の発見者としても知られ、貴重な資料や出土品の収集、研究により郷土文化の発展に貢献しました。その功績により昭和52年(1977)に豊田市名誉市民となりました。


民芸の森

民芸の森は、戦後、本多が住んでいた屋敷です。豊田市の名木・クヌギ林の中に田舎家や茶室、陶磁のこま犬、日本最古級のコンクリート製電信柱など、ユニークな品々が点在しています。本多が収集した古陶磁や民芸品は収蔵庫で保管され、コレクションの調査研究が行われました。
また、毎年春に開催された「陶器と桜を観る会」(観桜会)では、本多のコレクションが広く一般に公開されるとともに、舞台での狂言や芸能の上演、茶席、点心、甘酒などがふるまわれ、大いににぎわいました。

経 歴

明治31年(1898)1月、豊田市花本町に生まれた本多は、大正13年(1924)京都帝国大学(現・京都大学)電気工学科を卒業、逓信省に入省し、内閣興亜院技術部長、内閣技術院第一部長を歴任しました。昭和18年(1943)に退官するまで技術官僚として手腕を発揮し、そのかたわら技術者の地位向上を求める「技術者運動」を展開した気骨のある人物です。戦後は、日本電話施設(株)や(株)エフエム愛知の創立など実業家として活躍する一方、茶道を始めてから古陶磁への関心が高まり、陶芸家・加藤唐九郎との出会いをきっかけに、日本有数の古陶磁研究家・収集家になりました。また円空仏をはじめとする各種民芸資料を収集して民芸の振興を図ったほか、博物館明治村で開催された明治村茶会では、毎年茶席を一席担当しました。さらに親交が深かった杉本健𠮷の絵画や、地元出身の画家・陶芸家の作品も集めるなど数々の芸術家の支援も行いました。
晩年には狂言を数多く執筆して自らこれを演じ、また、コレクションの大半をゆかりのある博物館等へ寄贈しました。

民芸(民藝)について
柳宗悦・河井寬次郎・濱田庄司らは大正15年(1926)に『日本民藝美術館設立趣意書』を発刊し「民藝運動」を開始しました。
「民藝」の文字は、「民衆や民間」の「民」、「工藝」の「藝」を表し、民衆的な工藝を指しています。
柳宗悦はそれまで美の対象として顧みられることのなかった、手仕事による日用品の価値に光を当て、「下手物」と呼ばれていた無名の職人によるごく当たり前の安物の品々、日常使われていた器や衣服、農具や漁具などの仕事の道具の中にも「平常」の美や「用の美」といった価値が豊かに宿ることを発見し、そこに正当な工藝の発達を見出しました。
  • 豊田市民芸館 公式WEBサイト
  • 日本民藝館 公式WEBサイト
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